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ふくろう通信 私の恩師

  • 2019年

2019年10月 第241

私の恩師

大変お世話になった先生方の思い出

先月号は浪人時代のことを書きました。もちろん予備校の先生方にもお世話になり、首尾よく合格することができました。しかしながら、なんといっても今の私があるのは、高校、大学時代、そして社会人(医者)になってから、お世話になった先生方のおかげです。

私は昭和45年、長崎南高等学校に入学しました。3年間ずっと男子クラスでした。そのため女性には奥手となり、今でもその名残があります。担任は国語の中田秀夫先生で、森鴎外が生まれた、島根県津和野出身です。当時は30歳前半の元気あふれる先生でした。やはり3年間ずっと担任していただき、これはとても珍しいことでありました。先生は若干厳しいところもありましたが、私をとてもかわいがって頂きました。ふくろう好きは私と同じで、スポーツに絵画、音楽と趣味の豊かな先生です。元々理系より文系が強かった私に、公認会計士を目指したらどうか、と言われましたが、何とか医学部入学を果たし、先生には喜んでいただきました。

大学入学当初、どうもクラスにも講義にもなじめず、医学部で良かったのか、入る大学を間違えたのではないかと、悩んだ時期がありました。やっと落着いてきた頃、細菌学の講義に熱帯医学研究所内科(熱研内科)の松本慶藏先生のゲスト講義があったのです。お話が大変面白く、お上手で、特に感染症に関しての様々な内容が興味深く秀逸でした。講義の終わりにたまたま私の方に来られ、頭を軽くポンと叩いて「しっかりこれから頑張るんだよ!」とニコニコして言われました。松本先生は全く身に覚えはないでしょうが、これもきっかけの一つとなり、1980年4月に熱研内科に入局することになりました。先生はとても明るい先生ですが、学問には厳しく、呼吸器、細菌感染症においては、日本ではとても有名です。学問や人間の在り方など、いろいろな面で教えて頂きました。野口行雄先生には、大学病院で研修医の私に最初の手ほどきをしてもらいました。埼玉県立がんセンターに就職されましたが、2011年4月に長崎に来ていただき、私の患者さんに「人はなぜがんになるのか」のテーマで講演され、大変好評でした。

1981年2月26日朝、大雪が降り積もる中、初来日のローマ法王ヨハネ・パウロ2世のミサが長崎市松山陸上競技場で行われていました。敬虔な信者でうまる中、その光景を車窓から眺めながら、私は福岡県田川市立病院に向けて、特急かもめで旅立ちました。悲壮感溢れる気持ちで一杯でした。青二才の研修医にとって、初めての遠くの大病院だったからです。学識高い内科部長の高橋義晴先生は、懇切丁寧に患者の見方、胃カメラ、胃透視などを教えて頂きました。私にとり初めての学会報告は、先生のご指導の元「シメチジンで消失した胃石の一症例」で、鹿児島の内科学会地方会で発表しました。最後の原稿チェックまでして頂き、本当に有難い思いでした。

佐世保の長崎労災病院では持永俊一先生にご指導を仰ぎました。先生は誰よりも早く病院に来られ、医局員のカルテをすべてチェックし、問題点を鉛筆で書かれるのです。本当に頭が下がる思いでした。礼儀がきちんとできていないと、厳しく叱られましたが、若い私たちにも細かい気遣いもされ、本当は優しい先生でした。音楽好きの私が「マーラー交響曲第5番」を聴きに熊本県立劇場へ行きましょう、と持ちかけたところ、音楽がお好きとは思えなかった持永先生も思いがけず賛同され、内科医局員全員で行った事が懐かしく思い出されます。

これらの先生方はすべて、指導力があり、厳しさだけでなく、優しさも併せ持たれた素晴らしい先生方ばかりです。

 

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