ふくろう通信 世界初の超高速鉄道、新幹線の開発物語
- ふくろう通信
2017年4月 第211号
世界初の超高速鉄道、新幹線の開発物語
東京オリンピックに向かって日本が全力疾走していた時代
私は鉄道が大好きです。横浜の原鉄道模型博物館で大喜びしたり、埼玉県、大宮にある鉄道博物館に行って感激しました。医者仲間で鉄道おたくの友人が、長崎から東京、またその逆の駅名を瞬時に次々とすべて言ったり、列車時刻表も熟知して、汽笛が鳴ると今のはカモメの何便だ、と断言するなど、本当にびっくりします。また鉄道全般に関する知識もすごいのです。日本には、私のようなアマチュア鉄道好きから、超マニアの私の友人まで数多くいます。ところで日本の傑作工業製品に0がつく、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)と0系新幹線(初代新幹線)があり、両者には後述の如く関連性があります。今回はその新幹線が開業までに至るまでの興味深い物語です。
鉄道への関心:私は小学生時代の春休み、初めて親に連れられ東京を訪れました。見るもの聞くものすべてが驚きの連続でしたが、鉄道を中心とした交通網の発達が印象的でした。その中でいとこが模型機関車を走らせているのを見て、自分も欲しくてたまらなくなり、親に無理を言って、当時高価な鉄道模型を買ってもらいました。それ以来鉄道は私の関心の的になりました。その頃は東京オリンピックに向けて、日本は高度成長が始まり、新幹線実現のため今とは比べ物にならない程、夢と希望と熱気に満ちた時代でした。
新幹線実現へ(狭軌から標準軌道へ):戦前から200㎞を超す速度で列車を走らせるという弾丸鉄道構想がありました。そのためには狭軌(幅1067 mm)は無理で、後藤新平が唱えていた標準軌道(1435mm)にする必要がありました。それを体を張って新幹線という形で実現にまで進めたのが、当時の国鉄総裁、十河(そごう)信二と国鉄技師長、島秀雄でした。
十河、島コンビ:島秀雄は弾丸列車を牽引する機関車の設計を命ぜられましたが、戦局悪化で計画は立ち消え。戦後国鉄総裁となったばかりの十河は、島秀雄に新幹線開発を一緒にやろうと誘い、このコンビが新幹線実現に大きな役割を果たしました。標準軌道で機関車方式でなく、あらゆる面で効率的な電車列車方式を島は選び、多くの技術的に困難な問題を解決していきました。十河は予算が決定的に少ないため、佐藤栄作の助言もあり、世界銀行に困難な交渉の末、8千万ドルの借款を受けることに成功、これらにより難問が解決していき新幹線実現に向かったのです。
優れた技術者の存在:島は、零戦など海軍航空機のスペシャリストの松平精はじめとする、軍の航空技術者を大挙、国鉄に抜擢しました。これにより車両振動問題などを解決し、戦後の新幹線には戦前の零戦等の技術伝統が確かに継承されました。優秀な戦闘機、ゼロ戦は悲劇の主人公でしたが、新幹線は日本の誇りとなりました。新幹線の初代電車は0系、何か関係がありそうですね。
東京オリンピックまでに開業:昭和34年3月に2000億円の予算を認められてから、39年10月の東京オリンピックまでの5年間で営業運転にこぎつけるまで、線路、鉄橋、駅、新型車両360両の開発、量産、運転管理、信号、電力供給、運行ダイヤ、およそ鉄道の一切のシステムを完成させたのです。昭和38年3月には256kmの世界最高記録も達成しました。開業はオリンピックの直前、39年10月1日でした。午前6時ひかり1号が発車、この晴れ舞台に二人の姿はありませんでした。その後現在に至るまで新幹線は重大な事故もなく、死亡者もないことは日本の大きな誇りです。
世界の鉄道に強い影響:新幹線を見て、フランス国鉄はTGVの構想を策定しました。フランスで出版された「TGVの挑戦」にはこう記されています。『TGVは日本の新幹線の息子である』と