ふくろう通信

ふくろう通信 チェコのテレジンの子供たちの絵

2020年8月 第251号

チェコのテレジンの子供たちの絵

先月の日曜日の朝、NHKEテレの番組の「こころの時代」を早起きして、たまたま見ていました。それが素晴らしい心に響く番組だったのです。番組の名は「テレジンの絵は語り続ける」です。紹介して話された方は野村路子さん。1989年プラハでテレジンの子ども達の絵と出会い、その子供たちの悲しい事実を伝えようと、今でも展覧会、執筆、講演活動を続けている方です。

 

野村路子さんは30年前、当時のチェコスロバキア・プラハを旅行中、ある不思議な建物を見て、それが博物館であることに気づき、そこにある絵に出会い、強い衝撃を受けました。それはナチス・ドイツ政権下、テレジンという町にあったユダヤ人強制収容所の中で子どもたちが描き続けた絵でした。以来、野村さんは展覧会や本の執筆などを通じて、テレジンの絵を伝える活動を続けてきました。今回はそのテレジンの子供たちのことです。彼女の活動を通じて、私が愛してやまないチェコの悲しい歴史の一端を知りました。

 

チェコの首都プラハから北へ60キロほど離れた人口6000人ほどの小さな美しい街、テレジンは、1941年から1945年まで収容所の街でした。すぐ近くにアウシュヴィッツがあります。テレジンに送られてきたユダヤ人は、およそ14万4000人。その約4分の1の3万3000人が病気、飢え、過労、暴行や拷問や刑罰で死亡、8万8000人がアウシュヴィッツなどの収容所に送られ、ガス室で殺されました。「アウシュヴィッツが地獄なら、テレジンは地獄の控え室だった。」と幸いにも生き残った、わずかな人達は言います。

 

 このテレジンに、1万5000人の子どもたちがいました。子どもたちは、親から離され、<子どもの家>と呼ばれる建物のなかで生活していました。部屋には三段ベッドが並び、一つのベッドに三人も四人もが「イワシの缶詰のように」重なり合って寝ました。すぐに布団は破れ、藁が出ました。貧しい食事しか与えられないのに、子どもたちも大人と同じように一日10時間もの労働をさせられ、過労や栄養失調で倒れました。そんな子ども達は、もう労働力として利用価値なしとされ、アウシュビッツへ行くのでした。

 

飢え、寒さ、親と会えない淋しさ、つらい労働、死の不安……子どもたちは、笑顔を失い、ただドイツ兵に怒られないようにひっそりと暮らしていました。そんな子ども達の姿を見た大人達は話し合いました。「あの子たちの笑顔をとり戻さなければ…」「たとえ限られた時間でも、生きていることは素晴らしいのだと教えてあげないと…」―そして、収容所の中に、教室が開かれたのです。大人たちは元教師、音楽家、詩人、作家、そしてその中に一人の女流画家、フリードル・ディッカー・ブランデイズ(左写真)がいました。彼女は子供たちのために、自分の最大限のことをしました。そして子どもたちは、すばらしい絵を描きました。しかし1944年10月16日、フリードルは30人の子ども達と一緒にアウシュヴィッツへ。この時彼女は23歳。 みんな帰れませんでした。

 

1945年、収容所が解放されたとき、4000枚の絵が残されていました。絵の教室の時間、笑顔を忘れていたような子どもたちが、まるで生まれ変わったように目を輝かせ、クレヨンを握って一生懸命に絵を描いた絵でした。それらはプラハに運ばれて、地下室へしまわれ、戦争が終わって20年近く過ぎた時、その絵は発見されました。心を打つ絵ばかりでした。私もそれらを見て、深い感銘を抱きました。