ふくろう通信

ふくろう通信 ラクリモーサと第九

201112 

ラクリモーサと第九  モーツアルトとベートーベンの最期

 

 

今回はモーツアルトが最後に作曲した「レクイエム」の中の曲、「ラクリモーサ」と、ベートーベンの最後の交響曲、4楽章の「喜びの歌」でおなじみの第九についてです。

なぜこれらについて書くかというと、実は12月18日に長崎交響楽団の定期演奏会でこれらを演奏しました。なかなかいい演奏ができて好評でした。
それから今年最後の「ふくろう通信」にちょうど相応しいかなと思ってとりあげました。クラシック音楽に馴染のない方も、しばしお付き合い下さい。

 

 

モーツアルトの白鳥の歌、レクイエムのラクリモーサ:
この曲には思い出があります。数年前、原爆メモリアルコンサートがあり、この時の指揮者がコバケンこと世界的指揮者、小林研一郎氏でした。私もこの時の臨時オーケストラに参加でき、バイオリンを弾いていました。
ラクリモーサの練習中、指揮者が私に向かって、「隆杉さん(ある理由があって私の名前を知っていたのです)、モーツアルトはこの曲の何小節目まで書いたのでしょうか?」と尋ねたのです。
この曲が未完で終わったのは知っていましたが、何小節目までかはうろ覚えだったので「18小節目だとおもいますが?」と適当に答えたのです。実際は8小節目で終わっており、とんだ恥をかきましたが、私が言いたいのはモーツアルトの本当に最後、渾身の思いで死と真近に接しながら作曲していたのが、この未完の曲、ラクリモーサだったのです。レクイエム全体は弟子のジュスマイアーが完成させました。

モーツアルトが生きた時代は、子供を多く生んでもほとんどが夭折しました。子沢山バッハは20人の子宝には恵まれましたが10人が夭折、モーツアルトの母の子は7人中2人(モーツアルトと姉ナンネル)しか成人しませんでした。
モーツアルト自身も5人子供をもうけても4人が乳児期に死にました。それでも当時人々は生きることに歓びを失わず、子供を沢山生んだものでした。したがってこの時代は、今と違い死は日常的で人間的ことがらでした。

モーツアルトも常に死を意識していたことは、次の死の床にある父への手紙からも明らかです。

「死は私たちの生の真の目的です。私は若いのですが、毎晩ベッドにつく時、ひょっとすると明日はもう生きていないのではないかと考えるのです。それでも私が他人に無愛想だったり悲しげに見えたりする人はいないでしょう。この生きているという幸福を、私は毎日神に感謝し、同じ幸福を私の隣人にも心から祈っています」

病弱だったためか、このように若くして達観した死生観を持ったモーツアルトでしたが、死に直面していた1791年、レクイエムを正体不明の人物(実際はウイーンの貴族)に委嘱されました。鬱々とした気持ちで死の前日の12月4日まで作曲したのでした。そのためかこの曲の哀しい美しさ、情感の深さは類を見ないものとなりました。ラクリモーサこそがレクイエムのクライマックスであり、本質なのかもしれません。
わずか36年弱を駆け足で生き抜いたモーツアルトの最期の思いをCDなどででどうぞお聞きください。

 

 

ベートーベンの第九と最期:
1823年、荘厳ミサ曲を完成し、直ちに第九の仕事に取り掛かりました。
約30年間を費やして取り組んだすべてをこれに投入。処女公演は1824年5月7日ウイーン。その交響曲は音楽史上空前の高見にまで到達しました。しかしこの頃の健康状態は最悪でした。
26歳の時に始まった難聴、第九作曲時はほぼ聴力が失われ、また何度となく再発する腸炎とそれに伴う下痢に苦しめられていました。
その後は衰弱の一途で肺炎を併発、腹水、黄疸が進行したりで、長い闘病の末1827年3月26日死去、56歳でした。剖検は詳しくなされその結果、肝硬変と食道静脈瘤が見られたと報告されています。直接の死因は肝硬変でした。難聴と闘い、常に新しい形式を見出し、晩年自分ではもはや聞けない力強い作品を産み出した偉大なベートーベン、感謝です。

今年も残りわずかになりました。どうぞいい年をお迎えください